Spenser Society of Japan 日本スペンサー協会 本文へジャンプ
オンライン・フォーラム
2013年1月5日 The Relevance of Edmund Spenser

小田原謠子先生が2012年9月25日、ロンドンでのBritish Academy主催のフォーラムに出席されました。その報告を先生からご提供いただきましたので以下に貼り付けます。

The British Academy "The Relevance of Edmund Spenser" 報告

2012年9月25日、ブリティッシュ・アカデミーで 催された"The Relevance of Edmund Spenser"に出席した。大変興味深い催しだったので、概要を紹介させていただく。

 司会:
Jonathan Bate, Provost of Worcestor College, University of Oxford
 講師:
Colin Burrow, University of Oxford, an authority of Elizabethan literature and author of Edmund Spenser
Andrew Hadfield, University of Sussex, the author of Edmund Spenser: A Life (Oxford University Press, 2012)
Simon Jarvis, Gorley Putt Professor of Poetry and Poetics, University of Cambridge, cultural critic and a poet
Ann Lake Prescott, Columbia University, a leading authority on Spenser's writing and co-editor of the Norton Spenser

 ジョナサン・ベイト氏は、これまでのスペンサー研究の歴史を振り返って"relevance"と伝記の問題を提起し、アンドリュー・ハドフィールド氏は、Edmund Spenser: A Life (Oxford University Press)の執筆とそれに対する人々の反応と、そこから生まれる問題を語り、アン・レイク・プレスコット氏はスペンサーがヨーロッパの文学的伝統の中にいることを語り、コリン・バロウ氏は "relevance"の言葉の定義から始めて、"infinite" と"relevant"のせめぎあいから神話創作に至る広がりを語り、サイモン・ジャーヴィス氏は長詩と連の韻律学と作詩法の面からThe Faerie Queene を論じた。
 ベイト氏、バロウ氏、ジャーヴィス氏と、ハドフィールド氏、プレスコット氏とで、"relevance"という言葉の捉え方が違っているようなので、本文では原語のまま用いている。

Jonathan Bate
 先にWorks of Ben Jonson (Cambridge University Press)と、Ian Donaldson, Biography of Ben Jonson (Oxford University Press)の出版に際して催されたブリティッシュ・アカデミーのイベントの紹介で、私は、ベン・ジョンソンは、はっきり現代的な伝記を書ける最初の二人の詩人の一人だと述べた。もう一人は彼と同時代のJohn Donneで、ベン・ジョンソンとジョン・ダンは、私信と、図書目録といった記録文書を大量に残した最初の詩人で、彼らの作品には明白に自伝的要素があり、そのため彼らの生涯と作品を結びつけることが容認される。スペンサーは長い間、英文学のカノンで大変親しまれ、賞賛されてきた。ワーズワスは、イングランドの偉大な詩人を4人挙げるよう頼まれれば、ためらうことなくチョーサー、スペンサー、シェイクスピア、ミルトンと答えたことだろう。しかし、今日スペンサーはそのような顕著さを失っている。それは何故かと問うのは興味深いことだ。
 35年前の今週、私はケンブリッジ大学に入学し、スーパーバイザーに「最初の週はスペンサーから始めよう。The Faerie Queene を読む」と言われ、ヘファーズ書店へ行き、「スペンサー全集を下さい」と言うと、店員は戸惑ったような顔をしてタイプしたが、綴りを間違え、スペンサー作品は出版されていませんと言った。当時Standard Oxford Spenser は絶版で、スペンサー作品集の購入は不可能だった。その後30年、学会でのスペンサーの評判は並みはずれた復活を経験し、いくつかの新しい版、The Faerie Queene の大部の注釈本が出版され、作品に対する新しい見方がなされ、彼の作品におびただしい関心が注がれた。それを押し進めたものの一つは、文学者の間に歴史的文脈の重要さという意識がよみがえったことである。それも、エリザベス朝イングランドにおけるアイルランドの文脈の重要さ、スペンサーがアイルランドの行政役人であったという事実、彼がアイルランドの政治について書いたことが、スペンサー研究の同時代性に一種の切れ味を与えた。
 ハドフィールド氏のEdmund Spenser: A Lifeの出版を今夜は祝う。氏はスペンサーと歴史、スペンサーと政治、スペンサーとアイルランドといった問題に焦点を当てているスペンサー学者である。スペンサーの伝記は60年間出版されず、Judsonによる優れた伝記は何冊ものヴァリオーラム版スペンサー作品集の中に埋もれ、その意味ではスペンサーは顕著でなかった。だから今回の独立したスペンサー伝の出版は、ブリティッシュ・アカデミーに集まってスペンサーは今日まだ重要(matter)なのかどうかを考えるいい機会なのだ。
 "The Relevance of Edmund Spenser"という表題を付けたのはブリティッシュ・アカデミーだが、"relevance"という言葉の辞書の定義の一つは"practical, and especially social applicability"である。もし現実的、社会的適切性がないとすれば、ないからこそスペンサーを読むべきなのかどうかという問題を私は提起したい。また、作家の人生とその作品とのつながりの観念、そして重要な伝記的事実を有するものという伝記の観念が、今日とはひどく違っていたエリザベス朝との関係で、伝記の問題を考えたいと思う。

Andrew Hadfield
 私がスペンサーの伝記を書き始めたと最初に話した時、反応はさまざまだった。多くの人は好意的だったが、懐疑心から様々な反応があった。「本当?あなたはお若いのではありませんか?まだ完全に失敗したわけではないでしょうね?」(傑出したアメリカ人学者)、「誰かが面白い伝記を書いているというのに、どうして別のものを書くのですか?」伝記を書くことにいったい価値があるのかという敵意ある質問もあり、それは次のような助言となった。「伝記なんか書かなくても、そういったことを全部言えたと思うよ」(友人)。伝記と文学の関係について、私は、伝記がとりわけ文学の分析だとか、他のすべてより特権を持つべきだと思っているのではない。私の言いたいことは、こういった反応は伝記的研究の役割もしくは重要性に対する懸念のしるしであって、私自身も共有しているということである。Oxford DNBの相当数の項目を書く前、私は伝記をほとんど読まなかった。
 私は死者を生き返らせる探偵の仕事を自分がどんなに楽しんだかということに怖くなった。私の望んだことは、死者について語りたいという願望だったのかもしれない。好むと好まざるにかかわらず、誰かの伝記があるということを悟るに至った。
 こういった見解に対する懸念が、H. G. MarshallのEnglish Literature for Boys and Girls (1910) の冒頭の、ひどく控えめな、魅力的な本の防御「少年少女の皆さんへの謝罪」である。「これは皆さんが求めた本ではありません。誰も求めなかったものです。皆さんがひどく失望しなければいいのですが。」
 人は「スペンサーは宮廷詩人で、いつもタイツ、胴着、襞襟を身に付けて、賢く、まじめで、国教徒、保守主義者、彼がThe Faerie Queene で敬意を表した親しい友サー・ウォルター・ローリーのような人との付き合いを好み、洗練されて文化的で、愉快で柔和で考え深く、興奮させず、不承不承の敬意を抱かせる」といったイメージを持っている。これはスペンサーの一種の慎重なスタンダードの肖像画Kinnoullポートレートに基づいている。ヴィクトリア朝後期、20世紀初頭に見つかる、実際よりも若いと思われるスペンサーの想像上の肖像画はキノールに基づく。キノールは、人々がスペンサーのものを発見したいと思っていた18世紀、Thomas Kennettが1757年にスコットランドで発見したもので、このイメージのスペンサーが後世に残った。
 生存中のスペンサーに人が結びつけた唯一のイメージは、彼の二度目の妻エリザベス・ボイルのものである。現在修復不可能なほど傷んでいるSir Robert Tynteの墓碑の彫像の二人の婦人の一人は、ティントの二度目の妻になったスペンサーの二度目の妻エリザベス・ボイルで、彫像はどちらも頭部をなくしているが、これが存命中のスペンサーのイメージを得るのに最も近いものである。大事な点は、スペンサーはほとんど痕跡を残していないことだ。その結果、退屈で立派な宮廷人という彼のイメージが長いこと残ることになった。伝記の書評では、皆、彼に植民地の役人という役割をふりあてている。
 人の人生と作品は分かちがたく絡み合っている。ジョンソン、シェイクスピア、マーロウ、ダン、ローリー、フィリップ・シドニー、メアリー・シドニー、宮廷人で政治家のバーリー、ロバート・ダドリー、ロバート・デブルーといった華やかな人々に対し、スペンサーは地味な存在である。作家がどんな人か知る必要がある。James Shapiroは「シェイクスピアは誰だったかということが問題か?」と問いかけ、「誰であってもかまわない」という答えを持っているが、それは違う。私たちは異なった状況では異なった読み方をし、異なった考え方をする。もしシェイクスピアが執筆のためにイタリアへ行かなくてはならなかったなら、彼は宮廷政治を理解し、その地の代理人になり、違う作家になっていただろう。想像力を働かせて書きはしなかっただろう。
 スペンサーは伝統的価値観と対決する実験的な作家で、文学を考え直し、書き直していた天才だった。パトロンの世話にならず、そのためアイルランドへ行くことになり、そこに住んだ。大臣バーリー卿を侮辱する人間は、単にジェントルなだけの「詩人の詩人」ではない。だからスペンサーの伝記は大事(matters)なのだ。彼はどのように"relevant"なのか。
 スペンサーが大事だ(matter)ということには、いくつも理由がある。第一に、彼を除外すれば英文学史が大きく違ってくる。ミルトンはスペンサーを賢明で真剣な詩人とした。スペンサーがいなければミルトンの作品は違うものになっていただろう。ポーエツ・コーナーでスペンサーの墓碑がチョーサーの隣にあることは思い出す価値がある。スペンサーなしでは英文学史は退屈なものになるだろう。すべては伝記にではなく作品に基づいている。
 Stanley Fish が論じているように、人はミルトンが重要な政治的思想家だから、あるいはその時代を代表する魅惑的な人物だからミルトンを読むのではなく、彼が偉大な詩人だからミルトンを読む。スペンサーは偉大な詩人だ。女性による統治の問題、誰と結婚するか、ふさわしい子供を生み出せるかといった多くのことが君主にかかっていたが、スぺンサーは、暴力の問題、達成すべき目標、その最たるものはアイルランド征服といった問題に直面し、問題を分析し、テキストに書き表すことが出来ただけだった。私はこの部分のスペンサーは読むべきでないと論じたものだった。読むのは苦痛かもしれない。ただ肯定的な側面、ポジティブな側面に集中するのがいい。
 しかしすべては分かちがたく結びついている。必要に応じて選んで取り上げるというわけにいかない。スペンサーは、語りのより糸を驚くべきやり方で織り合わせる。詩的な世界を創り上げるために自分自身の言葉あるいは連を発明しながら、スペンサーは、暫定的であれ、誤解を招くものであれ、誤りであれ、他の詩人の行く準備の出来ていないところに行く準備が出来ている。

Ann Lake Prescott
 私は二種類の "relevance" について話す。第一に、スペンサーは、彼と彼の作品が文学的ヨーロッパ連合に属すことを思い起こさせる手がかりをたくさん残している。イングランドは言語的にユーロ・ゾーンではなかったが、彼は確かにより広い世界の一部だった。The Faerie Queene はAeneid で始まり、次にアリオストのOrlando Furioso の影響が認められる。彼の牧歌にはClement Marotからの翻訳が含まれる。ソネット集から祝婚歌にはPierre Ronsard的なものがたくさんある "Ruines of Rome"はDu Bellayから来ている。Petrarch的な詩を書くことを選択出来た時、スペンサーはペトラルカを無視し、新しいペトラルカになろうとした。ペトラルカから逃げ、ペトラルカ的であるまいとした。彼は愛し愛される女性を見つけ、Amoretti の終わりで、結婚さえ出来た。
 スペンサーの"relevance"の一つは、彼が言語間文学的エコノミー(inter-linguistic literary economy)に関与していることである。
 今日の催しに私が出ることを知った友人が、Browningをもじってフェイス・ブックにPRを書いた。それを見た彼の若い友人が「つまらない」と返事を出した。説明を求めると「学部生時代にスペンサーを読み、退屈だと思った。問題はアレゴリーだった。何かが何の意味でもかまわない。宗教、美徳、忠誠を言いたいだけだと言えばいい。教訓的だからイライラする。物語は物語であればいい」と答えた。
 今読書中のSF三部作に答えがある。中心的な小説があり、マロリーのMorte D'Arthurへの旅の後、スペンサーのThe Faerie Queene へ向かい、現代的な数学者、心理学者は、グロリア―ナが悪い魔法使いのカバラを破るのを、強烈な科学的力で助ける。美徳が勝利するが、美徳は美徳そのものではなく人物であり、現代の学者の一人は、私人としてのエリザベス、アレゴリーのベルフィービーと結婚する。この小説は凱旋歌を歌うSFではなく、純理論的フィクションですらないにしても、面白い。そして決してアレゴリーではない。作者が魔女のDuessaを入れながら、St. Georgeを落とし、「神聖」の入る余地のないのは興味深い。
 私にはアレゴリーのあるスペンサーと"relevant"なアレゴリーの方がいい。最近の主な学術書は、スペンサーを、賢明で、美徳の真面目な教師、エリザベス女王を背後からせきたてる、うやうやしい従者とは想像していない。誰もThe Faerie Queene の持つ倫理的真剣さを否定していないが、スペンサーの機知とユーモアが以前よりも認識され、彼は、尋問と言った方がいいほど美徳を説明したがっているわけではないと信じられている。
 何故私たちはスペンサーが "relevant" だと考えるのだろうか。彼が、理想と例示された行動を吟味しているからだろうか。曖昧さをもった吟味でありながら、話や不思議の一致の時には曖昧でなく、アレゴリーが互いに混じり合うために衝突する時、複雑に吟味している。その結果、私たちは、片手に人生の濃密さを思い起こさせる共鳴を持ち、もう一方の手に喜びの源を持つことになる。その喜びが私たちの偉大な文学の真の"relevance"だと信じるために、人は快楽主義者である必要はない。ハドフィールド氏の本は、それ自体が喜びであり、また、私たちがスペンサーに発見する喜びへの道案内になるだろう。

Colin Burrow
 私は"relevance"という言葉に困惑している。"relevance" は、人が「 完全に危機的で(desperate)ある時にだけ使うべき言葉」として私のリストの一番初めに来る。というのは、冷たい、緊張した企てを強く連想させるからだ。それはしばしば"integrity" すなわちテキストの誠実さ(integrity)、批評家の誠実さ(integrity)、また彼らの聴衆の誠実さ(integrity)の冒涜につながる。もし私が英語の全権裁定者になったなら、私は"relevance"を廃語にすることさえ真剣に考えるだろう。
 "relevance"は詩的な言葉ではない。英詩のChadwyck Healey データベースで "relevance" は一度しか現れない。Karl Shapiroの皮肉な"Sestina: Of the Militant Vocabulary" の中で、"relevant" は革命の隠語のキーワードの一つとして使われている。
 スペンサーは"relevant"という言葉を決して使わなかった。一つには、十六世紀には"relevant"が主として法律論議に属していたためだ。法的論議では、"relevant"は被告人が有罪か無罪かを示すのに十分なことを意味した。しかし、英国の詩人が"relevant"と"relevance"を概して好まないのは、どちらも強弱弱格であるため、弱強格の韻文に合わせるのが難しいからだ。
 "relevant" という言葉がスペンサーの弱強格の韻文の流れに合うかも知れないところが一つだけある。それは、ごく稀に、スペンサーが強弱弱格の3シラブルの形容詞を入れるために行の最初の脚韻を逆さにしている時である。このように用いられるスペンサーお気に入りの形容詞は"infinite"で、高度な緊張の瞬間に韻律を乱すために、彼はしばしば用いている。その一例がThe Faerie Queene 第三巻の、処女懐胎によるベルフィービーの誕生の描写である。彼女はクリソゴニーという名の貞節なニンフと日光との、ありそうもない結合から生まれる。スペンサーは太陽がクリソゴニーを孕ませるやり方と、ナイル川から生き物が自然に生まれ得る様を比較する中で "infinite"を使っている。"Infinite shapes of creatures"は、韻律の上でひどく脱線せずに "Relevant shapes of creatures"になる。
 The Faerie Queene は、これまでの歴史の大半、一連の美しい夢として見られてきた。子供たちの書棚でThe Faerie Queene がPilgrim's Progress の隣にあったことは、スペンサーが、若い詩人に詩人としての経歴の初めに手本にされた詩人であったことを意味する。18世紀中葉から後半のゴシック・リバイバル中、彼は、若い、たいていホイッグ的な詩的イングリッシュネスと結び付けられ、彼の連の形はこの民族の自由あるいは想像力の自由を探求するために用いられた。ジェイムス・トムソン、キーツ、ワーズワスらは皆スペンサー連を書き、この詩形はゴシック的自由と想像図に結び付けられる傾向があった。
 そのようなスペンサーはほとんど完全に消えてしまった。その代わりに作り上げられたのが、ハドフィールド氏による伝記に具体的に示されている、政治的に抜け目がなく、パトロンに対して生意気な詩人だ。The Faerie Queene は、今、いわば境界からの叙事詩と見られている。古典の叙事詩、イタリアの叙事詩、そしてプレスコット氏が示しているように、フランスの叙事詩の伝統を取り入れて、不安な(anxious)植民地の行政役人の眺望から書き直している。今日、私たちはThe Faerie Queene を、もうすぐ終わろうとしていることをスペンサーが知っていて、ますます、またアイルランド風に疎遠になっていたテューダー朝に対する賞賛と考える。
 このような、歴史的にはめ込まれたスペンサーは豪勢なことだが、害も与えてきた。The Faerie Queene を、今日の文学的"relevance"の地図から押し出してしまった。例えば、ボブ・ディランは新しいアルバムの中で「もうすぐ真夜中過ぎだ。妖精の女王とデートだ」と歌うが、彼はTitaniaという名の女性との熱いデートしか意味していないらしい。Ian McEwanの小説Sweet Toothのヒロインの美しい女スパイは、サセックス出身の若い学者を、諜報機関から間接的に金を受け取るよう説得し、こうすればスペンサーについての学術書を書いて一生を過ごす恐ろしい運命から救われて、小説が書けると言う。このヒロインはThe Faerie Queeneを読んだことがなく、読もうと思ったことさえない。
 何故The Faerie Queene は、詩人の母胎から、学者の墓場に変容したのか。
 一つには、過去20年間、この詩に "relevance"の詩学を通してアプローチしたためだと思う。それはエリザベス朝の詩から最良のものを得るやり方ではない。ある作品の"relevance" について語る時、ふつうそれはフィクションと、そのフィクションを豊かにして価値を高めると言われている特別な歴史的状況との間に認められる関係を意味するが、16世紀後半の作家はこういう風には考えなかっただろう。現代の文学的意味での"relevance"の、16世紀後半における最も近い同義語は"application"という概念で、それは、読者が虚構の人物と当代の人間あるいは事件を結びつける行為を説明するために用いられた。読者がテキストを当てはめる(apply)時、読者は意図的に、そしてしばしば悪意をもって、文学上の人物と生きている個人を同一視した。これはたいてい作者にとってはよくないことだった。ベン・ジョンソンのPoetaster で、詩人ホラティウス(Horace)の干渉好きなライバルたちは、作者に罪を着せるため、彼の詩を特定の個人に当てはめた(apply)
 スペンサーは、時に、歴史的事実に直接的に当てはめる(apply)ことの出来るエピソードを書いたが、その結果はよくなかった。The Faerie Queene第五巻のデュエッサの裁判で、スコットランド女王メアリーの裁判が透けて見えるアレゴリーは、当てはめる(apply)ことが容易過ぎて、"relevant" 過ぎ、メアリーの息子スコットランド王ジェイムズ6世の、「Edward Spenser (この名前は間違い)は、過失のゆえにしかるべく裁判にかけて罰せられるべし」という怒りの手紙を招いた。
 スペンサーは普通 "application"を避けようとした。そしてこの、いわば"relevant"であるまいとする努力は、神話の創作(myth making)と呼ばれる傾向のものに彼を誘い、広い範囲の経験を意図的に融合させて複合体に仕上げる作品が創作された。"application"の回避は、"relevance"よりも響き(resonance)とでも呼び得るものに賛意を示したのであり、多分、私が、ハドフィールド氏ほど、スペンサーの人生における出来事が彼の詩に本当に大事だと納得しないのはこのためなのである。
 スペンサーが生殖力をナイル川が生み出す「数知れぬ生き物たち(infinite creatures)」と比べたニンフ、クリソゴニーの娘ベルフィービーは、スペンサーがエリザベス女王を讃えた「いくつもの鏡」の一つである。しかしクリソゴニーを単純にアン・ブリンと同一視することは出来ない。ベルフィービーの誕生に詩人が連想する「数知れぬ生き物たち」は、"relevant"な生き物ではなく、神経質な"application"から離れて広大さへと向かう、神経質で気を狂わせるようなジェスチャーなのである。"the infinite"へと向かうジェスチャーは、今度は読者に、女王の嫡出性について無様に問いかけたり、彼のテキストを歴史にあまりに密着させて当てはめたり(apply)しないようにさせることを意図している。スペンサーは、全く"relevant"でないことにかけて天才だったと私は思う。彼は真実を曇らせる、あるいは破砕することの出来るフィクション、そして歴史との関係を暈すことによって、狭い意味で"relevant"であるよりも"infinite"であることを暗示することの出来るフィクションを創ることが出来たのだ。
 スペンサーについて注目すべきこと、そして彼の作品を不変に重要なものにしているものは、彼が"relevant"なものと"infinite"なものを完全に分離することをほとんど不可能にしていることである。第三巻で彼は魔法使いマーリンの作った予言の鏡を描写している。その鏡は「鏡の世界」の中に全世界を写し出す「ある王侯への有名な贈り物/ 無限の報酬にふさわしい作品(worthy worke of infinite reward!(3.2.21))」と描写されている。その鏡はある意味ではスペンサー自身の詩の鏡だった。彼の詩は「王侯への贈り物」で、それによって、詩人は「無限の(infinite)報酬」ではないにしても、少なくともたっぷりの年金をもらうことを望んだ。しかしその"infinite"な魔法の鏡は、他のことも暗示する。"relevant"という言葉は、この時代、被告人に罪を自覚させる、あるいは有罪を立証するのに十分な議論の中で用いられた法律用語であるが、マーリンの魔法の鏡は、"infinite"であると同時に、この特殊な16世紀の法的意味で"relevant"なのだ。「大逆を暴露し、敵に罪を自覚させた」――つまり、それは人々の有罪を立証し、悪い奴を釘付けにし、差すことが出来た。だから、マーリンの鏡は、魔法のように"infinite"なものと、脅迫的に"relevant"なものの混合なのである。その組み合わせのために、それはスペンサーの精髄となり、そして多分彼の詩の最良の自画像となっている。マーリンの鏡を取り巻く鋭さ(edge)は、18世紀の夢見るようなスペンサーではない。だから、私は、そのスペンサーに戻りたくはない。しかし、私は、批評家が過去30年間、"infinite"なスペンサーを犠牲にして、"relevant"なスペンサーを前景に置いてきたと思う。彼の作品の中で、繰り返しこの二つの潜在的に詩的でない強弱弱格が現れるのを私たちは耳にする。"infinite" が"relevant"を時には貫いて、時には"relevant"を取り巻いて、そして時には"relevant"をものともせずに現れるのを耳にする。

Simon Jarvis
 ハドフィールド氏のEdmund Spenser: A Lifeの出版を祝うと共に、スペンサーの "relevance"について考えるために私たちはここにいる。この言葉は、普通、私に何か全く無関係な(irrelevant)ことを発見したいと思わせるものでもあり、私は、20世紀後半に生きるためにヘーゲルはどんな"relevance" を持ち得るかと尋ねられて、20世紀後半に生きることはヘーゲルにとってどんな"relevance"を持ち得るかと尋ねた方がいいと答えたドイツ人批評家のことを考えさせられる。スペンサーについて同じように感じるわけではないが、ハドフィールド氏が少し前に編集したCambridge Companion to Spenser の中で、Paul Alpers氏は、キーツとシェリーの世代がスペンサーを同時代人とした最後の世代だと指摘している。しかしハドフィールド氏は導入部で、現在英語で書いている最も有名な詩人Seamus Heaneyがスペンサーの作品に注目する必要があると感じているのは驚くべきことではないと書いている。
 スペンサーの"relevance"について二つの異なった考えが示されているようだ。スペンサーの衝撃的言説はどうなるのか。彼はアカデミーに閉じ込められるのか(2-star)。詩人の一般読者の中で使うのか(4-star)。知り合いの詩人たちに尋ねたところ、多くの詩人がスペンサーは自分の作品に意味を持つと答え、私は満足だが、サン・ディエゴ在住のイギリス詩人は「スペンサーに異議を唱えることになるだけだとしても、スペンサーを繰り返し読む」と書いてきた。グラスゴーのモダニストは、"Ruines of Rome"を1シラブルの単語だけで書き直した "Rose Wreck"のアイルランド詩人Trevor Joyceの方向に私を向けた。もちろんすべての回答が、現代詩におけるスペンサーの影響は不変に連続している必要があると考えさせるわけではない。別のスコットランド詩人の回答から、学生時代にThe Faerie Queeneを読むと、徳高い人物を作り上げることが長詩にふさわしい目的で、アレゴリー性のあるロマンスは詩人が有益であるために必要な要素だという考えが頭に入るということを思い出させられた。もっとも、一つにはこの考えから生まれた未出版の長詩に"Dog Puke"という題がついている。"Dog Puke"は、詩人の詩人からは程遠い。
 スペンサーがThe Faerie Queene を書きたいと思い、4000近くの連を、独自に編み出した独特な形で書いた凄まじい熱意から、この時代における彼の意議はまだ存続している。スペンサー連は、特別な形の思想、詩に遂行できる特別なレッスンを示すための形である。しかし、優れた長詩ではいつも、詩人が遂行したいと願っている物語あるいは主題と、リズム、詩形、連の束縛との間の理想的な協力は、ごく稀にしか示されないだろうという予感がする。長詩は、調和的につながっている必要のある二つの要素の一種の戦いであり、詩行と構想との協力的な敵対関係である。連についてのEmpsonの論述が古典となっているが、エドワード朝の韻律学者George Sainsburyに戻りたい。長詩の連は、語りの衝動が抒情詩の推進力に妨害されるという危険を伴う特別な困難さを作り出すとセインズベリは推測しているが、スペンサーのThe Faerie Queeneでは、結びの六歩格の詩行が、各々の連を次の連に向けて送り出すように見えるので、彼はユニークなやり方でこの段階を避けたのだと言っている。セインズベリがThe Faerie Queene は語りが抒情詩にはまり込まないよう保っているとしているのは正しいが、そのメカニズムは彼が明記しているものとは違う。英語の英雄詩の韻に力と耐久性がある理由の一つは、要の古典の多くで、とりとめのなさと驚異の衝動との微妙なバランスが見られることから、歌っているとも語っているともつかない領域に達するという事実があるからだと言われている。The Faerie Queene では、時に韻律上の例外はあるが、正式な5つのシラブルの詩行が並び、「スペンサーは、自らを英語における終始一貫した正真正銘の5歩格の詩人とした。」例外はあるが、詩行は談和風、抒情的、あるいは結婚歌と言うより、断固とした語りか、とりとめのないものである。行と連は、協力的な敵対関係にある。読者は、しばしばこの詩を支配している、探求完遂の必要と休息の願望との間の緊張を経験する。
 
                          文責:中京大学  小田原謠子
(付記)音声の聞き取り難い部分について、Angus Macindoe氏にご教示いただきました。記して感謝致します。


The Faerie Queene III. i. 41.8についての福田先生と鈴木先生の交信記録です。ご両人の了解のもとに掲載しています。

2010年10月23日 02時16分

スレッド1-1 質問 福田昇八
鈴木先生
 今、韻文訳を見直していて気づいたのですが、FQ 3.1.41.8 highlyのハミルトン注に、lightly 1609とありますが、p.744には出ていません。cとして載るべき異同と思われますが、いかがでしょうか。


2010年10月25日

スレッド1-2 鈴木紀之
ご質問の件についてお答えします。
Textual Introduction
p. 24Editorial Proceduresの箇所に簡単に触れていますが、Textual Notesには底本の1590の校訂箇所と「古版本のいくらか意義のある異同」を記録しています。もう少し詳しくご説明しますと、Textual Notesの第1巻~第3巻については、次のことを原則にしています。

1)15901596との異同がなく、その読みに特に問題がなければ、1609だけが異なっていても(譬え1609の読みの方が優れていても)Notesには載せない。
2)15901596との異同がないが、その読みに問題があり、1609が明らかに正しければ、1609を参照して校訂し、Notesに載せる。(例:1.11.41.4  For-Nor)

3.1.41.8
の場合は上記の1)に該当すると思います。15901596ともhighlyで、ハミルトン先生の注解のようにloftily, proudly等の意味で理解できるとし、ご指摘の通りNotesには載せていません。

このような原則をとった第1の理由は、基本的に1596を原本にした1609の異同が作者自身の改訂であるかどうか疑わしいところがあったからです。3つの版は対等ではなく、底本とした1590を主体とし、Spenser自身の改訂が確立している15962番目とし、異同の出自がはっきりしていない1609が最後になります。Notesはこれらの3つの版の間の異同のすべてを記録するのが目的ではなくて、主として初版・再版の異同について編者としての判断を明確にすればよいと考えたからです。

第2の理由は、1609のみの違いは他にも多くあり、すべてをチェックして記録するのは些末でもあり、何よりも物理的、時間的な制約を越えることになるという、出版が決まった時点での現実的な理由です。 

以上が、ご指摘の箇所を載せていないことについての申し開きですが、この箇所はTextual Introductionに言う"subustantive variants of some significance" に該当すると言うこともできるでしょう。今から考えれば曖昧な表現でした。ご指摘の箇所はHamilton先生が触れておられるのだから、例外的にNotesに入れてもよかったかなとは思いますが、上記のような原則から、載せなかったのは過誤とまでは考えません。

蛇足ですが、確かに、1609lightlyの方がhighlyより良いという感じがします。しかし、他方で1609の編者(あるいは植字工)は、内容を良く理解して、誤りを適切に訂正し、時には改良を加えているとの定評があります。実際に、前の2版の誤りをよく正していますし、句読点などはより文法的、現代的に改善しています。このケースも編者の改竄の可能性も否定できません。また、これらの語は、手書きでなくて活字の場合、読み違いも起こりやすいようです。

2010年10月27日 16時45分
スレッド1-3 福田昇八
詳しい状況がわかりました。この際、鈴木先生にお願いしておきたいのですが、Notesに載っていない異同を後の版まで含めて一覧表としてまとめていただき、そのうちにホームページに発表していただくと、会員全員に大変為になるとおもいます。例えば、スペンサーの明らかな間違い(例えば、今見直していて目に留まった箇所で、6.5.arg: Matilda - Serena , corrected by Hughes 1715;  6.6.17.7 Calidore - Calepine)もまとめていただくと重宝します。われわれのホームページ活性化への協力にもなります。 

2010年10月29日 03時15分
スレッド1-4 鈴木紀之

スペンサーの明らかな間違いの箇所についても、その内にまとめますが、少し時間をいただきたいと思います。先生が例に挙げられていた箇所のレファレンスは、正しくは6.5.Arg Matilda-Serena,  6.6.17.7 Calepineですので、そのように直しました。