Spenser Society of Japan 日本スペンサー協会 本文へジャンプ

伝記


スペンサーの伝記的事実は、ほとんどが不確かである。以下の年譜では、年を1552年とし、年齢はその年のうちにその年齢になった事を示す。これは、筑摩書房『妖精の女王』(1994)の年譜に基づく。

1552年
  イースト・スミスフィールドで洋服の仕立屋をしていたジョン・スペンサーとエリザベスの子としてロンドンに生まれる。生年は、『アモレッティ』60番の言及からこの年と推測されるだけで、確証はない。ウェストミンスタ寺院の墓碑には1553年生まれとなっている。
1558年(6歳)
  エリザベス女王即位。
1561年(9歳)
  新設のマーチャント・テイラーズ・スクールに入学。8年間在学し、校長リチャード・マルカスタの下で、古典語のほか、特に母国語重視の教育を受ける。
1569年(17歳)
  2月、ロンドン亡命中のオランダ人カルヴァン主義者ジャン・ファン・デル・ノート編の『浮世劇場』に「ペトラルカの幻」と「デュ・ベレの夢」を英訳出版。のちに改訳して、『瞑想詩集』に変更。
  5月、ケインブリッジ大学ペンブルック・ホール(現ペンブルック・カレッジ)に特待生として入学。翌1570年に講師となるゲイブリエル・ハーヴェイと親しくなる。
1573年(21歳)
  学士号取得。
1576年(24歳)
  修士号取得。
  この頃、両親の故郷ランカシャに帰り、『羊飼の暦』にロザリンドという名で出る女性と恋をしたらしい。
1577年(25歳)
  7月、アイルランドを旅行中、リメリックにおいてオブライエンの処刑を目撃する。
1578年(26歳)
  ケント州のロチェスター協会主教ジョン・ヤング(スペンサー在学中のペンブルック・ホールの学寮長)の秘書として勤務する。
1579年(27歳)
  レスター伯ロバート・ダドリの庇護を受け、フィリップ・シドニ、エドワード・ダイヤーと交際を始める。
  10月27日、マカビアス・チャイルド(20歳)とウェストミンスタの聖マーガレット寺院で結婚する。
  12月、『羊飼の暦』を匿名で出版する。
1580年(28歳)
  ハーヴェイとの往復書簡集2巻本を出版する。
  8月12日、アイルランド総督グレイ卿の秘書として、ダブリン城に着任する。
  11月、スメリックの大虐殺を見る。
1581年(29歳)
  『羊飼の暦』第2版を出版する。
  12月、ウェクスフォード郡エニスコージの寺院と邸宅を賃貸する。
  この頃、長男シルヴェイナス生まれる。
1582年(30歳)
  グレイ卿は本国に召還されるが、スペンサーはアイルランドに残り、キルデア郡ニューアビーの寺院を年三ポンドで賃貸し、地主紳士となる。
1583年(31歳)
  キルデア郡弁務官となる。
1584年(32歳)
  マンスター州会書記官ロドヴィック・ブリスケットの下で副書記官となる。
1586年(34歳)
  『羊飼の暦』第3版を出版する。
1588年(36歳)
  ヨーク郡キルコールマンのデズモンド伯から没収した領地三千エーカーの土地の領主となり、ここに英国人六家族と入植し、古城のそばに家を建てて、十年ほど住むことになる。この地を愛し、北に望む低い山脈をモール山、領地の南の境界をなすオーベック川をマルラ川と呼んで詩の中で称えた。
  この頃、長女キャサリンが生まれる。
1589年(37歳)
  ブリスケットの後任としてマンスター州会書記官となる。
  10月、ウォールター・ローリの来訪を受け、伴われてロンドンに行き、女王に拝謁する。
1590年(38歳)
  1月、『妖精の女王』1‐3巻をロンドンのポンソンビー書店から出版する。付録の「ローリへの手紙」は1月23日付。
  この頃、妻マカビアスが死亡する(?)。
1591年(39歳)
  2月25日、女王から年金50ポンドを下賜される。
  書きためていた、9編の詩を『瞑想詩集』と題して出版する。
  『羊飼の暦』第4版を出版する。
  アーサー・コージスの妻の詩を悼む『ダフナイダ』を出版する。
1594年(42歳)
  6月11日、夏至の日、コークにてエリザベス・ボイル(後の初代コーク伯の縁者)と再婚する。
1595年(43歳)
  『アモレッティと祝婚歌』を出版する。ソネット80番に『妖精の女王』全6巻を書き上げたと言っている。
  『コリン・クラウト故郷に帰る』をローリへの献辞付きで出版する。この本には、フィリップ・シドニーの死を悼む「アストロフェル」と「クロリンダの歌」のほか、ブリスケット作の詩など7編も収録されている。
1596年(44歳)
  『妖精の女王』1‐6巻を、2巻本として出版する。
  『四つの賛歌』を出版する。4つのうち、「愛の賛歌」と「美の賛歌」は若い頃の作と断ってある。あと2つは、「天上の愛の賛歌」と「天上の美の賛歌」。
  ウスター伯令嬢の婚約を祝う『プロサレイミオン』を出版する。
  この年、男子ペリグリンが生まれる。
1597年(45歳)
  『羊飼の暦』第5版を出版する。
  息子のために、南コーク郡のレニに城付きの土地を購入する。同じころ、近くのバタヴァントの寺院も手に入れる。
1598年(46歳)
  『アイルランドの現状に関する見解』と題する対話形式の政策論の出版を申請し、不許可となる。
  コーク郡長に任命されるが、タイローンとオニールの独立連動が激化し、10月、キルコールマンの家は暴徒に焼かれ、コークに逃げる。
  12月、現状報告のため上京する。
1599年(47歳)
  1月13日、ウェストミンスタにて死去する。ウェストミンスタ寺院の詩人のコーナーのチョーサーのそばに葬られた。
1609
  最初の『妖精の女王』2折本がが「無常編」を含んで初めて出版される。
1611
  最初の2折本スペンサー全集が出版される。
1617
  2折本全集第2版が出版される。
1620
  ウェストミンスタ寺院にドーセット伯夫人アン・クリフォードの寄付で墓碑が建てられた。石工はニコラス・ストーン。工費40ポンド。これは、1778年に大理石製に作り替えられ、現在に至る。
1633
  『アイルランドの現状に関する見解』がアイルアンドの歴史家サー・ジェイムズ・ウェア編でダブリンにて出版される。
1679
  『かの有名なる英国詩人エドマンド・スペンサー作品集』が出版される。

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